vol.35
- 「臭い」をどう教材化するか
- 財団法人 図書教材研究センター副理事長
- 上越教育大学名誉教授
- 新井 郁男
先般、日本教材学会恒例の研究懇話会が「主体的な学習態度の育成と教材の開発ー教材の特性を生かした学習態度のあり方―」というテーマで行われた折、参加者から、「臭い」はどうしたらよいでしょうか、という質問が出、コメンテーターとしてハッとした。一瞬、虚をつかれた思いであった。
懇話会としての提案は、図書教材、デジタル教材、音声教材という3つの視点から、それぞれ佐島群巳(帝京短期大学教授)、古藤泰弘(星槎大学教授)、小川博規(荒川区立第六日暮里小学校長)の3氏によって行われたのであるが、提案者側にとっても「臭い」は予想外の視点であったと思われる。
パソコンなど機器を通じて「臭い」を出すことは技術的には可能であるかもしれないが、どのような「臭い」を、どのような目的で、どのように教材化するかということは、考えてみると重要な研究課題ではないだろうか。
「臭い」は音声とは比べものにならないくらい、人による好悪の違いが大きい。したがって、「臭い」は人と人を結びつける一方で、人と人との関係を隔てる場合も多い。化粧、煙草、酒、汗、体臭などなどを想起するならば、そのことが容易に理解できるであろう。また、「臭い」は、単に個人と個人の間の関係だけでなく集団間・異文化間の関係をも左右する要素である。
かつてアメリカでは、白人と非白人の子どもを共学させることを目的とした強制バス輸送(bus(s)ing)が行われていたことがあるが、これは居住地を強制的に同じにすることは憲法上できないことから実施された政策である。居住地については選択の自由があるため、自然に分離してしまうのである。当時、筆者はシカゴ大学に留学しており、なぜ自然に住む所が別れてしまうのかについてアメリカの知人に尋ねたところ、白人としては臭いが耐えられないので、白人だけが住む所に引っ越してしまうのだという話を聞いたのである。経済的水準の問題もあるであろうが、「臭い」に象徴されるような文化の違いが居住地分離の大きな理由であるというわけである。
日本人もかつて西洋人から魚臭いと言われたことがある。「臭い」は理性を超えた人間関係規定要因のひとつといえるであろう。しかし、理性によってコントロールできる―というより、すべきマナーの問題に関わるところも多い。例えば、真夏の電車に乗っていると、冷房がきいているのに、隣で扇子を使う人がいる。本人は気持ちがよいであろうが、こちらには汗の臭いが伝わってくるのである。
というわけで、「臭い」も異文化理解、道徳教育などの観点から、教材化するということが必要なのではないだろうか。教材学会の研究課題に加えたらどうであろう。
〜図書教材新報vol.35(平成19年3月発行)巻頭言より〜